資料転載
特別展 龍華寺の天平仏 ーその謎にせまるー 神奈川県立金沢文庫 図録p49より
武州久良岐郡金沢郷知足山龍華寺<当初浄願寺と名付、後に勅号龍華寺>は、人王八十代高倉院御宇治承年中、鎌倉右大将源頼朝卿伊豆国三島大明神を崇敬ありて、武州金沢の瀬戸に勧請し、社頭御造営の後、常に法味を進め奉らむ事を謀り、伽藍建立の浄願を発して、文覚上人を共に志を合わせて、文治年中、六連の山中に、<山高からすといへとも、奇岩霊窟あり、或ハ壇上をかまへ、或は、梵字五輪の塔を彫刻せり、往昔弘法大師此所にて、護摩修行の遺跡なれば、俗呼て弘法山といふ、其外、閼伽井所々にありて、四時絶る事なき名水なり>精舎仏閣を建立して、阿弥陀菩薩を安置し、都率の四十九院になそらえて、四方に六八の僧坊を構へ、浄願寺と号し、数多の庄園を寄せ、仏像・霊宝を納め給、すなわち、中将姫繍絵の曼荼羅、大師自彫の愛染明王、是等中におゐて秀逸たり、堂舎甍を並へて、粉壁月の光りを移し、伽藍博敝にして、丹柱星の林をなせり、禅観の席には、衆僧法衣の袖をつなね、説法の庭には、貴賎肩を摩て郡をなす、正嘉年中に、南都の忍性律師当山に住して戒律を弘め、弘長二年には東寺におゐて、住持辨誉阿闍梨もために、堂上讙頂を修行せらる<血脈類集記第十八巻載之>、然して後文明年中、法印融辨誉住持として<浄願融恵附法光徳寺印融入室>印融僧都の附属に依りて、光徳寺を兼帯せらる<此寺も又前右大将の御建立にして、真言の法燈を伝ふる名区なれば、高野山無香光院印融師東遊のはしめ此寺に入て、住する事久し、直筆の書籍文庫に充満せり>、然りといへとも、寺院・精舎火災に罹り、殊更両院の寺領、時々の乱世に奪れ、漸く残れる庄園も他所に展転し、さしもの勝地既に荊棘の野となりなんとせしに、明応八年に至りて、融辨師、彼退転せん事を歎き痛み、本尊に祈りて、深く冥助を願はれしかは、感応顕然として、菅原朝臣中務丞資方(傍注/寺の施主是也)篤信を発し、辨師とちからを励せ、伽藍を再興せんと企たつる所に、本尊弥陀大士、夢中に、白豪より金色のひかりを放ち、辨師に告給はく、是より艮に当たりて、四神相応の霊地、末世有縁の勝区有、彼所に移して、三密の法燈を挑へしと、夢覚て其所(傍注/洲崎村の境也)をうかゝはるに、龍燈の奇端有<信心厚き人は、時々龍燈を拝す、本堂の前に数囲の老松有て、龍燈の松をいふはこれなり>、辨師、本尊の教えにまかせて此所に来り、二町四方結界して、兼帯の二ヶ寺を一寺となし、両院の僧坊を一列をして、後土御門院の勅命を蒙り、知足山龍華寺と号し、広沢の法水を酌て、佐々目の一流を味ひ、師資相伝の本尊・聖教を納め、善融法印に附属す、又、融師<此師は、相州小田原城主大森氏の末子にて、竜王丸を名つく、融辨師の徳行を聞て、浄願寺に入りて剃髪、法衣し、事教の誉れに世に隠れなし、依之、北条左京大夫、永楽七貫文并権現堂山(傍注/柴村)を寄附せらる>、享禄五年には、東寺宝菩提院亮恵僧正を請して、伝法灌頂を受、天文十二年には、古尾谷中務少輔平重長(傍注/鐘之施主是也)を壇越として、洪鐘を鋳改む、境内には、古木高くそひへ、覚樹の粧へをしめし、緑竹みとりの色をなして、実相不変の容を顕す、海水左右に湛をなす、画工金岡か筆を擲し八景は寺院をめくりて遠からす、南に当りて、吉田兼好か結ひ住し庵の旧跡もかつ残り侍り<彼家集に、詠歌見えたり>、又、僧坊四箇院・門前の左右にならひ<花蔵・引摂の両院は、浄願寺より従属せり、彼所に今花蔵院橋をいふ有>、廿有余の末寺、林邑に散在して、年々の法会・月々の勤修、恒例に任せて今に怠る事なく、宝祚の長久、武運の万歳を、祈り奉る暁の振る鈴の声には、無明煩悩の眠をさまし、夕への梵鐘のひゝきには、三有迷働の夢を破る、されはにや、帰依の道俗、所願遂さる事なく、信仰の男女、希望意にまかせり、故に君武の崇敬古今に亘り、諸人の信仰他にことなり、太田の道灌居士(傍注/本尊の壇主是也)、不動明王迄寄附して、武運の延長を祈り、霊牌を建立して、来際の追福を求らる、東照大権現、御入国のはしめ天正十九年の冬、東寺に入御ありて、寺号 御尋の時、奏者龍華寺と言上る、神君聞し召して此おりから此寺号を似て執奏する、立源氏といへる音の響あり、吉兆の寺号、感応道交すとて、感悦の余り、御修覆の経営并に御朱印を下置せ給、是より、また改めて龍華寺と名付侍りかる<又、慶長五年七月に、御成有しとなり、御殿近頃迄ありき、御成の節、瀬戸橋の御詠歌とて>、
岩たゝく浪のよるよる来て見れは 月さへわたる 瀬戸のからはし
尓来ますます御武運の長久を祈り奉り、四海の泰平を願ふ、寔に真言一家の本寺として、金沢に甲たり、古義談林の随一として江南に逸たる事、其由有哉、抑、安置の尊像は、霊作にして、効験殊にいちしるく、納る所の聖教は、代々祖師の相承にして、一宗の亀艦たり、椎(唯)恨らくは、僧宝の全からぬ事を、爰に羊質を以て寺院の名を汚すといへとも、漸法宝の流に浴するを以て、且其一二を記し、後来に伝へて、可畏の君子を持といふ物ならし、
元禄<十四年>春
第十四世沙門<快暹>書写
知足山北窓之下[印][印]
伝へ聞く、此縁起は、当寺第十四世快暹、後に野山[高野山]西院谷の徳厳院に移住す、京師[京都]大通寺南谷師は、筆墨ぶ工みなり。幸に睦友再三懇願たるに依り、今騰写し、后来の亀鏡となす、更に容易に処すること勿れとのみ矣、
時寛保三<癸亥>年閏四月 当院十八世見住海音<欽記>